えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

同窓会の閉会

今朝、看護学校の同窓会だよりが届きました。

えむこは40年以上も前に、ある国立大学医学部付属看護学校に入学しました。そして3年間、教養科目と専門科目を学び、病院実習を経て卒業しました。

 

えむこの看護学校は昭和26年4月に医学部付属看護学校として国の認可がおり、スタートを切りました。その前身校は明治27年、医学校看護婦養成所・看護科だったそうです。

それが昭和53年に医療技術短期大学部看護科ができ、えむこたちの看護学校は廃校になりました。その短大も医学部に保健学科が開設され、廃校になりました。

看護学校としては29回生までで、一番若い卒業生でも多分今年55歳です。

それで昨年、今後の同窓会について総会で話し合うことになり、アンケートが送られてきました。

結論から言うと、総会で同窓会は閉会することに決議されたそうです。

だから、今回送られてきた同窓会だよりは最終号なのです。

えむこは今までに1度も同窓会に出席したことはありません。そして今後も、同窓会が存続されたとしても出席することも、役員を引き受けることもできないと思います。だから、閉会は仕方がないことだと受け止めています。

でも、ちょっと寂しい気がするのですよね。自分勝手だけれど・・・

それで今日は、同窓会だよりを丁寧に読みながら看護学校時代のことをいろいろ思い出していたのです。

 

えむこが看護学校の受験を決めたのは高3の夏のこと。

当時、兄は遠方の大学2年生で下宿生活をしていました。弟もえむこの翌年には遠方の大学受験を目指していました。そうなるとやはり下宿生活になります。えむこは女だからというだけで、親から「地元の大学でなければ行かせられない」と言われ、その時に看護学校というものの存在を知りました。

今では当たり前のようにある看護大学や総合大学の看護学科だけれど、その当時は聖路加看護大学しかなかったと思います。3年過程の看護短大がいくつか開校され創めた頃のことです。

その当時の看護学校は授業料無料・衣服貸与(白衣)・食費も無料でした。看護師のことを何も知らないまま「女性の職業としては悪くないかも・・・」と思い込み、しかも「タダで勉強させてもらえる上に国家試験に合格すれば職業婦人になれる・・・」と思ってしまったのです。大学や看護短大はもちろん授業料等は必要でしたけど・・・

えむこは純粋に看護師になりたいと思って入学してきた同級生には申し訳ないような受験動機でしたね。

看護学校は1学年1クラス。えむこの学年は42名でした。1名だけ退学したけれど、後は全員卒業しました。

その当時の看護学校はほとんどが全寮制だったけれど、えむこの学校は大学系だったので自由でした。寮も自治寮だったので厳しい規則はありません。その代り学生運動が盛んな時代だったのでノンポリのえむこには辛いものがありました。人にも馴染めず、学生運動にも夢中にはなれなかったえむこは1年で寮から逃げ出し、後は自宅からの通学に切り替えました。

入学当初はその他にも「タダで勉強ができるから・・・」と受験した看護学校にはなかなか馴染めず、何度も大学を受験しなおそうと思いました。でも、何とか卒業し国家試験にも合格して看護師になることができました。

そんなえむこも、今では心の底から「看護師になって良かった・・・」と思っているのですよ。そう思えるようになったのは母が病気をしたこと、えむこが結婚、出産を経験したことが大きかったと思っているのですが。

看護学校の3年間にはいろんな思い出がいっぱい詰まっています。

えむこは卒業後、地元で看護師として就職したのですが、同級生の中には看護師になった者、進学して養護教員や保健師になった者、看護学校の教師になった者と進路は様々です。えむこの学年は珍しく助産師になった者はいませんでしたけど。

そして、卒業後も仲良しだった同級生とは情報交換や悩みの相談もしていました。

えむこは上級生や下級生にはほとんど知っている人はいないのですが、それでも同窓会名簿を見ては地元の同窓生の活躍を楽しみにしている自分を感じたりすることがあったのです。だから、同窓会の閉会はやっぱりちょっと寂しいと思うのです。

もう完全にリタイアしたんだけど・・・

同窓会だよりを読み終えて、改めて役員をしてくださった先輩や後輩に「ありがとうございました。お疲れさまでした」と素直な気持ちで感謝とねぎらいの言葉を贈りたいと思うのです。