えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

語部の話

数日前、J子さんからメールが届きました。

用件は2つ。1つはこの間一緒に行った葦毛湿原の写真ができたこと。もう一つはJ子さんのお店のお客さんが「豊川海軍工廠の話を聞かせてくれるから暇があればいかがでしょうか」というお誘いでした。

豊川海軍工廠というのは豊川市にあった海軍兵器の生産を目的とした東洋一の兵器工場のこと。そして、昭和20年8月7日にB29爆撃機124機とP51戦闘機45機による空襲により壊滅的な被害を受け、2500名以上の方たちが犠牲になったのです。

その跡地の見学会は毎年夏と冬に開催されています。夏は8月7日の空襲にあった日に開催されるのですが、草木が生い茂りヘビが出るようで、冬の3分の1ぐらいの量しか見られないと聞きました。

えむこは夫が倒れる前、夏の見学会に夫と共に参加したことがあります。でも、見学会のことをどうして知ったのか、その内容も恥ずかしながら断片的にしか覚えていないのです。

それで、せっかくご縁をいただいたことでもあるし、各地で語部として戦争体験を伝えている方たちの高齢化により、伝え続けることができなくなっている現状を考えると、是非聴かせていただきたいと思いました。

今日の催し、実はJ子さんから始まった話みたい。

J子さんは美容室のお客さんであるMさんから聞く当時の貴重な話を「自分一人だけで聴くのはもったいない」と思ったそうです。そして、そのことを知り合いに話したところ、その知り合いが所属するグループの事務所で話をすることになったのです。

今日の参加人数はMさんを入れて10名。えむこの同年代の人が多かったように思いますが、若い方もみえました。

Mさんは現在90歳で、海軍工廠が空襲にあった当時は22歳だったそうです。海軍工廠で働いていたわけではなく、正門前の会社に勤務していたとのこと。

工場上空からビラがまかれた時のようす。その内容。ビラは憲兵が回収し「内容に惑わされないように」と言われたこと。会社にいた時に空襲が始まり、防空壕に逃げたこと。友人は急いで逃げようと防空壕から出たため怪我をしたこと。空襲が終わり犠牲者の方たちを運び出す時の様子等など、話してくださいました。

海軍工廠で働いていた方々も非難する時に出る門によって生死が分かれたそうです。

工廠の話の後は、他の方も当時の経験を話してくれました。当時3年生だったという方もいて、食べものの話、焼夷弾の話、当時のようす等など。えむこは戦後生まれなので知らないことばかりです。そして、悲惨な話に言葉がありませんでした。

ホントは楽しい話を聞く方が好きだけれど・・・

でも、これはやっぱり知っておかなければいけないことだと思います。そして、しっかり心に刻み込み「こんな悲劇が二度と起きませんように・・・」と願わずにはいられません。