えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

人生の言葉として

数日前の新聞に曻地三郎さんの訃報記事が載っていた。心筋梗塞、心不全で27日に亡くなられたと。107歳だった。

106才だった去年、公共交通機関を使って世界一周した最高齢者としてギネス世界記録認定をを受けたとニュースやブログで拝見したばかり。

以前からすごい方だとは思っていたけれど、その時には、その元気の源はいったい何だろうかと思いを馳せた。

 

私が曻地三郎さんのことを初めて知ったのはいつ頃だったのだろうか。テレビだったのか、新聞だったのか、本だったのか、それさえも思い出せないぐらい昔のことだったと思う。

子どもさんが3人いて、そのうち2人の息子さんが原因不明の発熱から脳性小児まひに罹られたこと。

長男は学校で酷い虐めに遭い、退学を余儀なくされたこと。

二男は小学校にさえ受け入れてもらえなかったこと。

曻地さんはその二人にも学校に行かせてあげたい、学ばせてあげたいと思い、私財を投げ打って「しいのみ学園」という知的障害児の通園施設を造ったこと。そして、自ら教育や運営に当られたこと。等などを知った。

しいのみ学園が開設されたのは1954年のこと。当時はそのような施設はどこにもなく、全国の先駆けとなったそうだ。

 

曻地さんの訃報を知ったから、曻地さんが出演していたテレビをUチューブで見た。

子どもさんが脳性まひになり、どこの病院でも治らないと言われた時、奥さんが「科学には限界があるけど、親の愛情には限界がない」と言われた言葉。105歳の曻地さんが「人生は自分との戦いである」と色紙に書いていた言葉が心に残った。

「しいのみ学園」の開設は自分の子どもさんへの愛情から始まったことかもしれない。そして、その道のりは並大抵のことではなかっただろう。だけど、そのために多くの家族が救われてきたと思うし、社会への功績は非常に大きいものだったと思う。

 

兄の大学時代の友人であるTさんは、大学卒業後に大手企業に勤めていた。

多分、30代の初め頃だったと記憶しているが、お父さんが脳出血で倒れられた。そのため、会社を辞め、地元に戻り介護施設を開設したと聞いている。30年以上前のことだと思うから、当時は頼れる介護施設もなかったのかもしれない。かなり勉強して、勉強して始めたようだ。今も毎月研修会等に参加して勉強しているそうだ。

地元でも、息子さんが交通事故の後遺症で高次脳機能障害が残り、介護施設を開設した方がいると聞いた。今では高次脳機能障害という言葉も聞かれるようになったけれど、医療者でさえも少し前までは知らないぐらいだった。だから、当時はその障害のため受け入れ先に困ったと聞く。

私も夫が右半身マヒと失語症、高次脳機能障害が残り自宅に戻ってから、何度も介護施設を造りたいと考えた。急性期病院で失語症のため、人間扱いされないと感じたことがトラウマのようになっていたから。

でも、私にはそれだけの知力も財力も気力もなかった。

だから、曻地さんのことも、兄の友人も、地元の方のことも、心の中で尊敬しているのだ。

 

人はいつまでも生きてはいられない。誰もがいつかはこの世からいなくなる。だけど、その人が生きた証は残っている。

曻地さんのブログには、喪主である坪根ちかこさんの「御礼」と題した文が載せられていた。その一部だけど・・・

皆様のこの度のご厚情の御礼に若者を励ましてきた言葉を贈らせていただきます。

『禍を試練と受け止めて前進せよ、今からでも遅くはない』

 と。

私はその言葉と、色紙に書かれた「人生は自分との戦いである」という言葉、そして、曻地さんの功績を心に留めておきたいと思っている。