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えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

児童書は子どものためだけではない

今日、佐野洋子さんのエッセイ集をやっとのことで読み終えた。新聞や雑誌など、いろんなところに発表したエッセイを1冊にまとめたものだ。

私はその本を半分読むのに1カ月ぐらいかかってしまった。最近はどうも眠い眠い病を発症してしまったようで、毎日本を開くと、いや開かなくても、眠気が襲ってどうしようもなかったのだ。だから、決して面白くなかったわけではなく、とっても面白かったのだ。何日間か、夫と同じように早い時間に床に就くと、残りの半分は2日間で読み切ってしまったのだから。

 

その中に「子どもと共に生きる目」というエッセイがあった。

そこで佐野さんは中川李枝子さんの「いやいやえん」を絶賛していたのだ。

私は佐野さんのエッセイを何冊か読んだけれど、こんな風に絶賛した文章に出会ったのは始めてだったような気がする。

ご自身が幼稚園に入り、何日か行っただけで自分からやめてしまったこと。その時の子どもの目。子どもさんが保育園に行くようになると、母の耳であり目でしか子どもたちを見ることができなかったこと。そして、佐野さんの目は我が子が四歳なら四歳の子どもに、十歳になると十歳の子どもたちに移動していったそうだ。

子どものための読み物は嘘八百であらねばならぬ。そして、その嘘八百にこの世をしっかりと見つめた「ほんと」がなければ成立しないと思う。「ほんと」はリアリティーということである。

私の中にあるのは、自分が子どもだった時の内なる子どもと、母になって外側から母として子どもを見て来たあまり客観的でない子どもたちである。・・・・・・

丁度、子どもが保育園に行っている頃『いやいやえん』に出会った。私は目のさめる思いがした。それは保育者の目であった。

毎日子どもたちと生活し、子ども達を見守り続ける客観的でありながら子ども達と共に生きて子ども達の世界を共有している目であった。・・・・・・

私はその時、もう知る事が少なくなってしまった子どもの集団にこのように慈しみと子どもの細部を見守ってくれる人がいるのだいう事が、非常に嬉しかった。そして私は驚きつつ日本中の子どもを、いや世界中の子どもを愛しいと思った。

『いやいやえん』の出現は(私は少しも詳しくはないのだけれど)日本の児童文学史の中の大きな事件であったと思う。突然にそびえ立った生命が躍動する、大きな若々しい樹であったかも知れない。・・・・・・

私が13歳の時に出版された「いやいやえん」を私は読んだことがなかった。

子どもたちが小さかった頃には絵本の読み聞かせはしたけれど、177ページの単行本であるこの本は読み聞かせたことはなかった。

まだまだ佐野さんの絶賛の言葉が続くこの本を私は読んでみたくなった。調べると、対象は4歳から小学校初等だと書いてあった。なら、買っておけば孫が来た時に読めるかもしれない。そう思うと居ても立っても居られずに、すぐに本屋さんに走り、買ってきた。そして、一気に読んだ。

私は読みながら、遠い昔の内なる子どもに出会った。・・・・・・

『いやいやえん』を知った子どもは息をのんで、子どもである自分を生きたと思う。

こりゃ、天才だわ。この子どものリアリティーと奔放さ、そしてその世界そのものの品格。

私は『いやいやえん』の出現を本当に嬉しく思ったことを思い出す。

これは永遠の子どもの古典になる。出現その時にすでに真新しい古典の風格があった。

・・・・・・

こういうものが日本の文化の遺産である富士山の様なものだ。

いつ読んでも永遠なる子どもの世界がある。

気持が広々ととき放されて、かがやかしい光の中で、もう一度子どもの心を取り戻す。・・・

読んでいるうちに、私も遠い昔の内なる子どもに出会ったのだ。「ごふじょう」という懐かしい言葉にも出会ったりして・・・

 

私が最期に児童書を読んだのはいつの頃だっただろう。おそらくもう何十年も前のことだ。

 この本を読んでみて、私も佐野さん同様『いやいやえん』にはいつ読んでも永遠なる子どもの世界があると思う。そして、読むと気持が広々ととき放されて、かがやかしい光の中でもう一度子どもの心を取り戻すことができるのだ。それはほんとにすごいことだと思う。

『いやいやえん』は初版からもう50年以上が経つ。それなのに今でも変わることなく親しまれているのはほんとにすばらしい本だからなのだ。