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えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

40年経ってやっと

父が亡くなって何年かしてから、空き家になっていた実家を取り壊すことになった。

そこは、私にとって両親の匂いを感じることができる唯一の空間だったのだけれど、兄は同じ市内に土地を買い、家を建てて生活していたことや、他の事情もあり、今後も住み手のない家の取り壊しは仕方がないことだった。

 

実家は、母屋と両親が営んでいた家内工業の仕事場があり、どちらにも入っても懐かしい思い出が甦り、片付けはとても寂しい作業だった。

 

その時、大多数の物は処分をしたのだけれど、処分しきれないものもたくさんあった。使用していないタオル類、予備で買っておいたのだろうか包装したままの下着や靴下や洋服類。そして数々の贈答品。

母の物もたくさん残っていた。桐の和ダンスの中には着物やその付属品と、数は少ないけれど指輪などの宝飾品。そして押し入れにはいくつもの衣装ケースにスーツ類が。

 

私の兄弟は兄と弟。母が亡くなった時には3人とも独身だった。どんな高価なものがあったとしても(ないけれど)、母の物を欲しがる兄弟はいなかった。私も実家に行けば、いつでもそれらに触れることができたので、自分の手元に置いておきたいという気持ちにはならなかった。

 

だけど、取り壊すことが決まると、必要なわけではなくても、置ける所があることを良いことに、処分するには忍びないものや、思い出が詰まった物は全て私の家に持ち帰った。もちろん、兄が欲しいというものは兄の元に。弟は見に来ることもできなかったので、いつでも欲しいものはあげるつもりで。

 

それで、贈答品や包装したままの新しいものは地域の一品寄付に出すようにと持ち帰り、母の着物やその付属品と宝飾類は桐の和ダンスごと。スーツ類も衣装ケースに入れたまま持ち帰った。着物もスーツも着る訳ではないけれど、どれもが思い出いっぱいで、できれば何かに作り直したいと思っていたからだ。

持ち帰った和ダンスは私の寝室に置き、時々着物を出しては眺め、母を偲んでいた。そして母の和タンスが寝室にあるだけで、何だか心が落き、母が傍にいてくれるような気がしていた。

 

実家を取り壊してから、もう10年以上の月日が流れた。

私は母が亡くなった年より、11年も長く生きさせてもらっている。夫が倒れたこともあり、最近は自分の後始末を考えるようになってきた。それにシンプルに暮らしたいとも思うようになった。

粗大ごみが有料化になり、大きなものを処分しようと思うとお金がかかる。自分で決断し、処理できる今の内に、母の和ダンスを処分しようと思うようになった。まあ、直射日光に当たり扉の部分が反ってきたこともあるのだけれど。

 

昨日は母の40回目の命日だった。40年経ってやっと、母の物を手放せるような気がしてきた。

人さまからは、この年で親離れができてないのかと笑われそうだけれど、25歳になったばかりでこの世とあの世に引き裂かれた当時独身だった娘にとって、母のことを引きずらなくなるには40年の歳月が必要だったのだと思う。

 

今日は庭のシバの木と、咲き始めた小菊や他の庭の花を合わせてお花を作り、お墓参りに行ってきた。

そして、母に「近いうちに和ダンスを納めさせてもらうからね」と伝え、手を合わせた。

まだちょっと寂しい気もするけれど・・・