えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

舅たちのおかげで

昨日は夫の父親の命日だった。

お墓参りには庭の小菊がきれいな内にと月曜日に行ってきたので、昨日は仏壇にお線香を供えながら、かつてのことを思い出していた。

 

結婚当初、私たちは夫の実家から歩いて5分足らずの所に住み、別居生活を楽しんでいた。

長男が生まれてから、舅は孫の顔を見るのを楽しみに我家へ時々やってくるようになった。そして、長男が1歳を過ぎ、歩けるようになると、自分の家に連れて行きたがるようになった。

当時の私は「子育てはこうあるべきだ」とか「子どもはこういう風に育てたい」という気持ちが強く、舅に甘やかされることがとてもイヤだった。後にそれが子どもの心を苦しめることになろうとは思いもせずに、自分の考える「良い子の枠」にはめようとしていた。だから、長男にはとても厳しい母親だった。

とはいえ、夫の父親から「連れて行ってもいいか?」と聞かれれば、当然イヤとは言えず、そんな時はいつも家で独り悶々としていた。そして、息子が帰ってきてからは、より厳しい母親になっていたのだと思う。

舅も姑も、孫に対してやたらにモノを与えることはなかったけれど、私が躾けたいと思うことには無頓着で、ただただ優しかった。

長男が保育園に入園してからも、私は「親が子どものためを思ってすることは、大きくなれば必ず子どもは分かってくれる」と思っていた。当時は自分の考えを押し付けていただけだとも思わずに。で、なんとかマンやら、なんとかレンジャーみたいなキャラクターものが大嫌いで、おもちゃはもちろん、キャラクターの絵がついたTシャツや靴も買ったことがなかった。

息子は親の言うことは素直に聞いて、困らせることはなかった。

 

3、4歳の頃、高校時代の友人Yちゃんが子ども連れで遊びに来た。Yちゃんの長男は我家の長男より一つ年上で、しばらく我家で遊んだあと、一緒に遊ばせるからと、我家の息子も連れて家に帰った。

Yちゃんの家にはキャラクターの合体おもちゃがいくつもあった。キャラクター物は私がキライということもあったけれど、当時1万円以上もするようなそんなおもちゃは買ってやれず、我家には一体もなかった。その時、長男はいくつもあるおもちゃを見て、かなり衝撃を受けていたと、あとでYちゃんから聞いた。

 

その日を境に、息子は朝起きると泣き、夜寝かせようとすると泣くようになった。Yちゃんの家での出来事の他にも、保育園でちょっとした出来事があったということをあとで先生から聞いてわかったのだけれど。その時の私には、どうしてそんなに泣いてばかりなのか、見当もつかなかった。

 

実は、その全ての原因は母親である私にあったのだ。

私の「子育てはこうあるべきだ」とか「子どもはこういう風に育てたい」という思い。そして、自分の考える「良い子の枠」に知らず知らずのうちにはめ込もうとしていたことが、子どもを追い込んでいたのだと気がついた。

それに気づいてから、先ずはキャラクターの絵がついたハンカチを買い、次にTシャツ、そして靴と一つづつ買い与えた。1万円以上もする合体おもちゃは買えなかったけれど。それだけで、息子はあっという間に元の明るい子どもに戻った。

当時のことを思い出すと「なんてかわいそうなことをしていたのだろうか・・・」と、悔やまれて、今でも涙が溢れてくる。そして、息子にとっては舅や姑がいてくれたから心の逃げ道があり、その時だけでも温かい気持ちで過ごせていたのだろうと思う。それでおかしくなることもなかったのだろう。そう思うと、やさしく接してくれていた舅や姑には感謝しかない。

きっと私の子育てが気になっていただろうと思うけれど、責めることもなく、私にも優しくしてくれたのだから・・・