えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

何かを諦めるのは寂しいことだ

夫が脳出血で倒れてからもうすぐ4年と3カ月になる。

悲しいことに後遺症は右半身マヒだけではなく、高次脳機能障害でもある失語症も残ってしまった。

夫の場合、入院中は唸り声ぐらいしか発することができず、回復期リハビリ病院を退院前に主治医から「失語症は2年経つとそれ以上の回復は難しい」と宣告された。

退院後、「お」と「な」と「ん」という単音のみは発することができるようになったけれど、主治医に言われたようにそれ以上の回復は未だにみられない。

それでも夫の携帯電話はそのまま使えるようにしていた。初めは解約してしまうと回復を諦めてしまうような気がして。

だけど、殆ど使うことがなくても毎月1500円ほどの料金がかかるのだ。だから何度も解約することを考えた。

それがだんだん、言葉が話せなくても短縮ダイヤルを使えば私に電話をかけることができるかもしれないと考えるようになった。

もしも私の携帯電話にかけることができれば、夫が昼寝中に庭仕事をしていても、離れにいても、起きた時に知らせることができる。近くのスーパーにも心配せずに出かけられると思ったからだ。

それに、入院中は失行・失認という高次脳障害も残り、ナースコールも押すことができなかったのだけれど、退院後は簡単なコールボタンなら押せるようになったものだから。それでもテレビやエアコンのリモコン、ウォシュレットのリモコンに至っては何度も酷い目にあっていたけれど。

ところが「1」を1回だけ長押しすればいいという短縮ダイヤルでさえ何回も練習したのだけれど、長押しという行為は夫には難しいものだった。

 

で、昨日携帯電話の解約手続きをしてきた。4年も経ってやっと解約する気になったのだ。

 

実際に手続きを終えてしまうと、何だかとても気分が沈んでしまった。

元気な時に「携帯電話なんて必要ない」という自分の意思で解約するのならきっとそんな気持ちにはならないと思う。だけどそうではないからだ。

夫に対して私自身が言葉の回復を諦めてしまったような、道具の使い方を教えることも諦めてしまったような、そんな後ろめたさも手伝って気分が沈んでしまったのだろうか。もちろん諦めてしまったわけではないのだけれど・・・

 

月に1500円ぐらいとはいえ、携帯電話は諦めたほうが良かったのだ。そう思うことにした。道具の使い方は他のモノでもできる。庭仕事や離れでの用事やスーパーに行くのも夫がデイケアに出かけているときにすればいいこと。携帯電話がなくても大丈夫だ。私の沈んだ気分なんてきっとすぐに戻ることだろう。

何かを諦めることは寂しいことだけれど、諦めたほうがいいこともあるはずだから。

「やっぱりこれでよかったのだ」と思わなくては、私の沈んだ気分は元に戻りそうもない。