えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

あの日のこと

東日本大震災から今日で2年が経ちました。

1万5881人もの方が亡くなられ、未だに行方不明の方々が2668人もいるという現実に言葉がありません。瓦礫も片付かず、復興はまだまだというニュースにも心が痛みます。

この間から、新聞では震災の特集記事を組んでいます。そして、今日はどこのテレビ局も震災後の2年間を特集しています。

 

えむこもまた、今日は2年前の3月11日のことを思い出しています。

あの日、夫は脳出血で倒れ164日目。まだ回復期リハビリ病院に入院中でした。

当時、えむこはまだ働いていたので、宮城沖で大地震が発生したというニュースは勤務していた病院で聞きました。

M8.8という報道と、自宅に帰ってから観たテレビ映像に「日本中が大変なことになっている・・・」という衝撃と、背筋が凍りつくような思いを今も忘れることができません。そして、夫がいないことで心細かったことも・・・

 

えむこの長男は出張が多い仕事で全国を飛び歩いています。二男は東京の会社に勤務。そしてその日、兄は大学時代の集まりのため仙台に行くと言っていました。

地震後、3人のことが心配で心配で、それぞれに連絡をとってみました。

長男にはすぐに連絡が取れ、名古屋にいたとのこと。

二男とはなかなか連絡が取れず、随分心配しました。首都圏の電車はすべて止まっているとニュースで聞いていたから・・・

でも、遅くになってから、2棟ある社屋のビルの片方にひびが入ったこと。電車はすべて止まっているから、帰宅できない社員は全員ひびが入らなかった社屋に泊まるからと、連絡が入りました。

翌日は土曜日で、交通機関はまだ動いてないからと、二男は秋葉原から松戸の自宅まで歩いて帰ったそうです。自宅のアパートは裏山があるので心配していたけれど、そちらも無事でした。

仙台に向かっていた兄とはその日には連絡が取れず、翌々日にやっと連絡が取れました。

新幹線に乗車中に地震が起き、大宮付近で緊急停車したそうです。その日、新幹線は動かず足止めとなり、兄は帰宅困難者の宿泊施設になったアリーナに宿泊したそうです。そして、大宮から自宅に戻ることができました。

それに、兄嫁Yちゃんは東北の岩沼市出身です。実家では蔵が壊れたけれど、怪我はなかったとのこと。Yちゃんはさぞ心配だっただろうと思います。

えむこの周りはこんな風に結果的には何事もなかったけれど、それでも家族のことが心配でならなかった1日でした。

 

 

そして、その頃のえむこは・・・

夫にいくつもの重い後遺症が残り、出口が見えない真っ暗闇の中に一人取り残されたような気持ちで、毎日がすごく不安でたまりませんでした。そして、夜一人になると自然に涙が流れ落ち、とまることがありませんでした。

でもあの日、あの衝撃的なニュース映像を見てから「これしきの事で泣いていてはいけない・・・」と思いました。

 

あれから2年。

えむこの生活は落着いてきました。

だから改めて今、自分にもできることは何だろうと考えます。

まずは忘れないこと。新聞の特集も読んで、現状を常に知る事。

ささやかでも募金に協力し続けること。

東北の物を買うこと。

そして、祈る事。

それぐらいしかえむこにできることは思いつきません。

 

 

今日の14時46分。

亡くなられた方々のご冥福をお祈りし・・・

行方が分からない方々には「どうか早くご家族の元に帰れますように・・・

そして、1日も早い復興ができますように・・・

と、黙祷を捧げました。

亡くなられた方々や今も行方が分からない方々のことを思うと、えむこも祈らずにはいられないのです。