えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

おにいちゃん

私は3人兄弟のまん中に生まれました。

上は1歳9か月違いの兄で2学年上。下は1歳5か月違いの弟で1学年下。

3人とも戦後ベビーブームの真っただ中で生まれました。その頃は近所にも子どもたちがたくさんいたけれど、どういうわけか同年代の女の子は少なかったような気がします。

それで、私はいつも兄の後ばかりを追いかけていました。だから、男の子とばかり遊んでいたのです。

だけど、兄は私がついて行くことが嫌だったみたいで、よく「来るな」と言われました。それでも私は兄と遊びたかったのか、よく分からないけれど「来るな」と言われても、いつもついて行きました。

 

兄が小学校5~6年生の頃だったと思うけれど、叔母の家に行くと言いました。私は3年生か4年生の頃のことです。

叔母の家は、我家からだと市電の停留所まで歩いて7分。市電に乗って駅まで20分ぐらい。そこから東海道本線で4駅乗り、降りてから7分ぐらい歩いて行ったところにあります。

兄が行くと言えば、私も行きたいと言い、兄が「来るな」と言っても、私は「一緒に行きたい」と譲りません。母は兄に「連れて行ってあげなさい」と言うけれど、兄は絶対に嫌だと言いはる。それで今度は、私に「家にいたら?」と言うけれど、私もなぜか「行きたい」と言いはるのです。

そうなると、そこからはいつも母は知らん顔です。多分、電車賃だけは持たせてくれたと思うけれど・・・

私は嫌がる兄の少し後ろをついて歩き、市電に乗る。市電では兄が前なら私は後ろに離れて座る。東海道本線でも同じ。降りてからも兄が先を歩き、私は100mぐらい後をついて歩く。それでも一緒に行きたかったのは何でだろうと今では思うけれど、小学生の頃はいつもそんな風でした。

中学生になると、さすがについて行かなくなったけれど、兄に「この字は何て読むの?」なんて聞いたぐらいなら「無知文亡。何のために学校に先生がいるんだ」と言われ、教えてくれることはありませんでした。そして、ブスだのデブだのと言い、私が傷つくような言葉を浴びせていたのです。

そんな時、母が後で「お兄ちゃんはえむこの事をまだいい方だと言っていたよ」と、兄をフォローしながら慰めてくれました。

だけど、母と兄が漢字の話で盛り上がっていても、私はその中には入れませんでした。勉強でも運動でも兄より勝っていたものは何一つなかったから。

それと、テレビのチャンネル争い。それにも勝ったことはなく負けてばかりでした。

当時のテレビチャンネルはダイヤル式で、そのダイヤルを抜いてしまえばもうチャンネルを変えることができません。

チャンネル争いになると、兄はいつもそれを引き抜き、力づくで見たいテレビを観ていました。だから、その当時は何時だって、私は諦めるだけでした。当時の長男ってそんな風だったのかもしれませけど。

でも、兄が高校生になってからは、ついて行くことも、傷つくことを言われることはなくなりました。それどころか、予備校生になり、大学生になってからの兄はむしろ優しいぐらいになりました。

母が亡くなり、私が結婚することになった時もすごく優しかったことを思い出します。もちろん、今もだけれど。

優しい言葉をかけてくれるわけではないけれど「ついてくるな」と言われることもなく、傷つく言葉を浴びせられることもありません。頼めばできることは何でもしてくれるし「〇〇に付き合って・・・」と言えば、時間が許せば付き合ってくれます。

あの子どもの頃はいったい何だったんだろうと思うぐらいです。

多分、兄は私が嫌いだったわけではないと思います。ただ、自分が遊ぶのに妹が邪魔な存在だっただけなのでしょう。

優しくなったのは、兄が大人になり、私がじゃまをしなくなった。それだけのことかもしれません。だけど、兄に子どもの頃のことを聞く勇気はありません。「嫌いだった」と言われたら悲しくなってしまいそうだから。多分、そんなことは言わないと思うけれど・・・

兄は口数が多い方ではありません。だけど、夫が倒れてからは兄は兄なりに私を助けてくれている気がします。

だから、私は兄を頼りに思っているし、兄を慕っているのです。妹だから・・・