私は子どもの頃から母親に似ていると言われていた。顔に体型、そして性格までそっくりだと。母が亡くなり、父と接することが多くなってから、自分は父親似ではないかと思うようになった。顔や体型はやっぱり母親似だとは思うけれど。そんなことを話しても、母を知る人はみんな口を揃えて「えむこは母親似だよ」と言った。
どちらに似ていた方が嬉しいとか、そういうことではない。父と母がいて私が生まれたのだから、両方に似ていて当たり前のこと。だけど、父に似ていることは全否定みたいな感じだった。
母のことは以前書いたけれど、52歳で胃がんになり、54歳になったばかりで亡くなった。私はその母にすべてが似ていると言われてきた。
50歳ぐらいの時だっただろうか。母の年齢まで生きられるかと、自分の最期を考えるようになったのは。
そして、52歳を無事に通り越し、54歳も・・・
52歳の頃にはまだ子どもたちが大学生だったので、もう少し生かしてほしいと願っていた。だけど、54歳になった時には2人とも一応自立していたので、もう生かしてほしいとは思わなくなっていた。それで、夫とは延命治療のことや、自分たちの葬式のこと等をよく話すようになっていた。
その頃だったと思う。詩人の茨木のり子さんが亡くなられ、読んだ新聞記事に私が衝撃を覚えたのは。
一人暮らしだった茨木のり子さんはくも膜下出血のため、寝室で亡くなっていた。訪ねてきた甥御さんが見つけたそうだが、日付だけが書かれていない遺書が準備してあったという。
このたび私・・・くも膜下出血にてこの世をおさらばすることになりました。
これは生前に書き置く物です。
私の医師で、葬儀・お別れの会は何もいたしません。
・・・
・・・
「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出してくださればそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか...。
深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせていただきます。
ありがとうございました。
と。
私は癌家系。だから、彼女のような最期ではないと思う。だけど、その頃から、自分の生き方や最期の時のことを強く考えるようになった。
私は、以前から茨木のり子さんの「倚りかからずに」と言う詩が好きだった。もちろん、他の詩にも共感を覚えていたけれど。
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には・・・
・・・
・・・
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
そんな生き方、そんな最期にはならないかもしれないけれど、いつも私の心深くに入り込んでいる。
もう一人、私の心に直球で入り込んでくる詩人がいた。
石垣りんさん。どの詩も好きだけれど、表札が特に好きだった。
自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。
・・・
・・・
様も
殿も
付いてはいけない、
自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
それでよい。
私は昨日、誕生日を迎えた。
母が亡くなった年より、もう10年も長く生きさせてもらっている。
亡くなってからのことは、以前は茨木のり子さんのように通夜も告別式もしなくてもいいと思っていた。だけど今は、残された者たちが考えたようにしてもらえばいいと思っている。そうしてもらえるように、今から少しづつ、その思いを書き留めておこうと思う。そして、最期の時を迎えた後には分かるようにしておこうと。
多分、私はどうしようもない状態になるまで、誰にも言わず、今の状態を続けるだろう。例え、子どもであっても倚りかからずに生きたいと思っているから。
昨日の誕生日は富士山と駿河湾に興奮。そして、書かなかったけれど帰りの新東名で見た大きな茜色に染まったの太陽が水墨画のような山々に沈む姿と直後に現れた十五夜お月さまを見て、自然の雄大さ、すばらしさに心を奪われ、言葉には表せないほど自然の営みに感動していた。
だけど、こうして感動している時ですら、最期の時のことが私を襲ってくる。今は「どうか、夫を見送ってからにしてください」と願い、感謝して逝きたいと思っている。