えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

お見舞い考

夫が出先で倒れた時、救急搬送される前に義弟にだけは連絡をとった。介護が必要な義母を一人家に残し、私は夫が倒れた先に駆けつけていたから。

義弟は姉に連絡し、母の介護を依頼してから搬送先の病院に駆けつけてくれた。そして、医師の説明も一緒に聞き、緊急手術が終わる夜中の2時ごろまでずっと一緒にいてくれた。食べることも飲むこともできなくなった私のために「少しは口に入れた方がいいよ」と、お弁当やお茶まで買ってきてくれて。

今もそうだけれど、その時、子どもたちは2人とも関東で生活していた。だから、連絡をしたのは手術が終わり、家に帰ってからのこと。夫の意識は戻ってなかったけれど、命まで奪われることはなかったから。

子どもたちには仕事もあるし、生活もある。連絡はしたけれど「すぐに帰って来る必要はない」と言った。それに入院先はICUで面会は1日3回、1回に1時間だけ。来るなら意識が戻り、状態が落着いてからでいいと。その時点で、子どもたちが年休を取って帰省しても、意識のない父親の顔を覗き込むだけで何にもできないのだからと。

だけど、子どもたちは2人とも、すぐにすっ飛んできた。「命は大丈夫だから」と聞かされても、子どもたちにしてみれば父親のこと。心配して帰って来るのは当然のことだったと思うけれど。

 

夫はその日から、急性期の病院に1か月半、回復期リハビリ病院に4か月半の入院生活が始まった。

 

夫が入院したことを知っているのは、夫の兄弟と子どもたち。そして、夫は友人といる時に倒れたので、その友人Kちゃんだけ。

みんなに、それ以外の人の面会はしばらくのあいだ遠慮してもらうように話した。でも、お願いしてあったにもかかわらず、面会に来てくれた人がいる。

夫はICUを出て、脳外科の病棟に移ってからもしばらくは意識がはっきりしていなかった。和式の寝巻を着て、右手は動かないけれど、左手は抑制されている。動く方の左足で毛布を剥ぎ、寝巻のすそが捲れ、おむつ姿が丸見えで、尿管も見えている。私がいる時には、常に寝巻のすそを整え、おむつが見えないようにしていたけれど。

意識もはっきりしていない、しかも、そんな姿の夫のお見舞いに来てもらっても、私はとても辛いだけ。せめて、尿管が抜け、パジャマになってからにしてほしいと何度も思った。おむつは外れなくても、パジャマになれば人目に付くことはないから。

夫の兄弟と子どもたちはいい。例え、どんな姿であっても。だけど、他の人たちは例え親戚であっても遠慮してほしかった。

 

お見舞いには母の時も父の時も思うことがたくさんあった。だから、私は「来て欲しい」とか、家族から「行ってやってほしい」とか言われない限り、極力お見舞いは遠慮している。どうしてもの時には、ご家族にお見舞いを届け、気持ちだけ伝えるようにして。

 

この間夫の姉が来た時、叔母が入院していると言った。叔母は夫の父親の弟の連れ合いで、もう90才はとうに過ぎている。

何年も前から心臓が悪く、カテーテル治療も何度もおこない、ステントも入っている。今年、状態が悪くなり、透析もしているという。その叔母が入院しているというのだ。

義父も叔父もとっくに亡くなっているから、普通ならお付き合いもなくなる。だけど、家もそう遠くないことから、姉はお付き合いが続いている。

そんなことから、夫が入院中も姉が知らせたようで、叔母や従兄弟がたくさんのお見舞金を持って来てくれた。

叔母が入院したことも姉が何度も訪ねて知ったという。従兄弟は「お見舞いは遠慮してほしい」と言ったそうだが、姉は「それでも私はお見舞いに行かせてもらう」と言って、お見舞いに行って来たそうだ。そして、弟にも行くように言ったとか。

私には、我家の状況が分かっているから行かなくてもいいとは言ったけれど、入院を知ったからにはどうしようかと悩んでしまう。夫にたくさんのお見舞金をいただいているし・・・

夫を連れて行かなければ、このまま会えないままでお別れすることになるかも知れない。そう思うと、どうしたものかと考えてしまう。

何年も会ってないのだから、行かないでおこうかとも思う。叔母のことは、今でも時折思い出すことはあるのだから、それでもいいかと。