えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

生存確認みたいなもの

私の数少ない友人の一人であるMちゃんは看護学校の同級生。もう、40年以上の付き合いになる。

以前にも書いたけれど、私は学生時代1年間は寮生活をし、その後の2年間は2時間ぐらいかけて通学した。

これも以前書いたけれど、Mちゃんとは入試の会場で初めて出会い「一緒に入学できるといいな」と感じた人だった。

当時、看護学校というと全寮制で厳しい寮生活のところが多かったけれど、我校は自治寮だったのでかなり自由だった。ただ、学生運動がものすごく盛んな時代だったので、寮生活の中にも活動が持ち込まれ、私のようなノンポリ学生には辛いこともあった。だけど、Mちゃんも同じような考え方をしていたので救われていたのだと思う。

そんな寮生活のなか、夕食を食べたにもかかわらず20時頃になると誰かが「おなかが空いたね。お好み焼きが食べたい」と言い出すのだ。そんな時、私とMちゃんが買いに行く役を引き受け、近くの中華料理店まで店先で焼いていたお好み焼きを買いに出かけた。しかも私たちはいつも2枚づつ。そして、寮に帰るまでの道中でおしゃべりしながら1枚は食べてしまい、寮に戻ってからもう1枚みんなと食べていた。それでも今より体重は少なかったのだから、若かったのだろう。

 Mちゃんとは旅行にも行った。みんなと一緒のこともあったけれど、石垣島には2人だけで行った。

Mちゃんははっきりした性格なので「怖い」という同級生もいた。だけど、私はそんなことを一度も思ったことはなく、付き合いが続いた。ただ、私が地元に戻り、結婚してからしばらくは年賀状だけの付き合いになったけれど。それでも、再就職してからは出張先で出会ったり、たまには会うようにもなった。

 

Mちゃんは定年を少し残して退職をした。そしてその時、私に長い手紙をくれた。

これも以前書いたことがあるけれど、手紙には「読んでくれてありがとう。返事はくれなくても、読んでくれるだけで構いません」と結んであった。

だけど、私はすぐに返事を出した。するとまた手紙が来て、いつの間にか毎日ハガキを書くようになっていた。

それからメールのやり取りも始まり、今ではほぼ毎日、旅行で不在の時以外はメール交換をするようになった。

それがもう6年ぐらい続いている。

ただ、夫が脳出血で倒れた時には心にゆとりがなくなっていたのだと思う。パソコンを立ち上げることもなく、メールのことも頭にはなかった。それまで毎日ハガキもメールもやり取りしていたのに、急に途切れたことで、かなり心配させてしまった。我家は義母と同居だったので、Mちゃんは「義母さんに何かあったのだろうか」と心配したようだった。たぶん、義母だったら、その時は「しばらくお休みするね」と連絡したと思うけれど。だけど、夫だったから心に余裕はなかったのだと思う。

 

私がMちゃんにメールをする時間はまちまち。早い時間にメールすると、大抵はその日の内に返信メールが届く。夜中の0時頃になると、翌朝メールチェックをすると返信メールが届いている。

そして、Mちゃんは不在の時には例えば「いついつはスクーリングで京都に泊まります」とか書いてあるので、返信がなくても心配することはない。

それが、昨日は遅くにメールを送信したので、今朝は返信メールが届いていると思いチェックしたけど届いていなかった。「どうしたんだろう・・・」と思ったけれど、時々間違って違う友人に送信してしまうことがあったり、送信したつもりでしてなかったりということがあるので、そんなことだろうと思っていた。

 

すると、固定電話がなり、出るとMちゃんだった。

Mちゃんのところは電話回線を使ってネットをしているそうだ。そして、「今朝から電話回線がつながらないからメールが届かないけど心配しないでね」という連絡だった。

 

Mちゃんはずっと独身の一人暮らし。私は住所と固定電話の番号とPCのメールアドレスしか知らない。携帯電話の番号もメールアドレスも知らない。

だから何日も連絡がなくても手紙しか方法はない。

もしも、Mちゃんに何かがあったとしたら・・・

近くには90歳ぐらいのお母さんが一人で暮らしている。1日でも連絡がなかったら、お母さんが見に行くだろうか。

今はいくら元気でも、私たちの年齢では突然のことも起こりうる。

今日は携帯から電話をしてくれたからいいけれど、もしも連絡がなかったら、やっぱり心配したと思う。

メール交換は私たちの生存確認みたいなものかもしれない。

今度メールが繋がったら、私の携帯電話の番号とメールアドレスを伝えておこう。そして、Mちゃんの番号とアドレスも聞いておこう。生存確認ができるように。