看護学校の1年の時だったか、2年だったか忘れてしまったけれど、学校からハンセン病療養所跡地の見学に行った。
それがどこにあったのかを思い出そうとしても思い出せないのだ。
同級生のMちゃんに聞いてみたら、見学に行った事すら覚えていないという。Mちゃんが静岡県に住む同級生のみちよさんにも聞いてみたところ、やっぱり全く覚えていないと言うことだった。
それで、ネットで調べてみたけれど、現在の施設のある所は分かるけれど、跡地は検索しても分からなかったのでもうないのかもしれない。40年以上も前のことだから、そうなのかもしれない。
Mちゃんに覚えてないかを聞いた時、彼女から「どうして急に・・・」と聞き返された。
それで、昨年の5月にNHK、Eテレの日曜美術館を観た時から思い出そうとしていたこと、昨日の新聞記事を読んでまた思い出したいと思ったことを話した。
日曜美術館は、鉛筆一本で人間の孤独や闇と向き合い続ける画家、木下晋さんの回。
その木下さんが、一昨年末に87歳で亡くなられた詩人の桜井哲夫さんの肖像画を描いたという。
桜井さんはハンセン病療養所で生涯を過ごし、亡くなる半年前に長年交流があった木下さんに「自分が合掌する姿を描いてほしい」と言ったそうだ。木下さんから東日本大震災の話を聞いた桜井さんの願いだったと。
番組は、その制作の現場を密着ドキュメントしたものだった。
そして、完成されたその絵に私は衝撃を受け、圧倒されてしまったのだ。
その時、番組内で確か療養所の中が映し出されていたのだと思う。
そこは、私の遠い昔の記憶と同じで小さな部屋だった。
私はお風呂もトイレも、あとコンクリートの基礎部分も見たような気がするけれど。
そして、昨日の新聞記事は、昨年8月に83歳で亡くなられた元ハンセン病患者で詩人の塔和子さんの 遺骨が隔離から70年経って、古里の両親が眠るお墓に本名を刻み分骨されるというもの。
塔さんは、13歳で病気が分かり療養所に隔離された。
それから83歳までの70年間、本名ではなく名前を変えて過ごし、亡くなってからも療養所の納骨堂に園名で納められていた。
葬式で喪主を務めた弟さんは名前が言えず「塔の弟」とだけ語ったと言う。
塔さんの存在を隠して結婚したきょうだいのことが頭から離れなかったからだそうだ。
それが、昨年末に出身地の西予市が広報紙で塔さんの特集を組み、詩の朗読会を開催した。それを見学した弟さんは、参加者から「田の浜じゃあ悪くいう人はおらん。『塔和子を生んだ町』になっとるよ」と声がかかったそうだ。
弟さんも含め、きょうだいは差別を恐れ、地元を離れ関東や関西に出たという。
でも、時代は変わった。こだわってきたのは自分たちかも。前に進みたいと思い、両親の墓に分骨する話を進めた。そして、本名で。
記事によると、今日が分骨の日だ。
差別と偏見。屈辱と悲しみと寂しさに耐え続けた70年間だったのだろう。
私が生まれてから、まだ70年にも満たない。
13歳から今までずっと・・・と、考えても想像すらできない。
その間、親の死に目にも会えず、ふるさとに帰ることもできず 、本名すら名乗れないなんて。
看護学校から療養所跡地に見学に行ったのは、19歳か20歳の頃。
まだ、疾患のことも学習する前のことだったので、当時はよく分からなかった。
だけど、今だったら感じ方が違ったように思う。
ハンセン病と診断され、療養所に強制的に隔離された方たちは、特効薬で治るようになってからも差別と偏見で退所できなかった人は少なくないと聞く。そして、らい予防法が廃止されてからも未だに1900人の人たちは療養所で暮らしているそうだ。
まだ、辛い思いをして生活している方たちがこんなにいると思うと心が痛む。
差別と偏見は何と罪深いことだろうか。
亡くなってからとはいえ、塔さんが本人の希望通り、ご両親のお墓に、しかも本名で分骨されること。出身地では「塔和子を生んだ町」として、今では差別も偏見もないだろうこと。それがせめてもの救いのような気がしている。