えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

義母の命日

義母は大正4年生まれ。姉二人と弟の4人兄弟だった。もう一人弟がいたというが、乳児期に亡くなったそうで覚えてないと言った。

そして、義母が幼少の頃、母親が急逝。まだ30代だったそうだ。その後は父親が一人で4人の子どもを育てたという。

でも、一番上の姉が小学校に入学するころから義母の母親代わりで、父親は朝早くから暗くなるまで畑で働きづめだったらしいが。

小学校なのか中学なのか忘れたけれど、卒業すると東京に奉公に出た。奉公先はお手伝いさんが10人以上もいるようなお屋敷で、行儀作法はそこで厳しく教えられたという。

何歳の時だったか忘れたけれど、地元に戻り、義父と結婚。義父の両親と同居だった。

当時貧乏のどん底で、家には畳もなく、板の間にゴザを敷いたところに寝ていたそうだ。茶碗も箸も湯呑も人数分だけ。客が来ても使う器もなかったとか。

義父の父親はとても厳しい人だったらしいが、母親はやさしい人だったので有難かったという。

女1人、男3人と、4人の子どもに恵まれたけれど、貧乏生活は夫が小学生の頃まで続いていた。ま、当時は一部の人たちを除いて、みんな貧乏だったのかも知れないけれど。

姉が結婚し、兄が大学を卒業し就職。少し楽になった頃、兄が27歳の若さで亡くなった。事故だった。

 

義母は、60代頃まで辛いことや悲しいことがいっぱいあったのだと思う。

だけど、時々話す義母はただ淡々と話すだけで、愚痴めいた言葉や辛かったというような言葉を聞いたことがない。夫が言うに、兄が亡くなった時でさえ涙一つ流さなかったと。

子どもに先立たれた母親が悲しくないはずなどないに決まっている。例え夫たちに涙をみせなかったとしても。

 

だけど、晩年の義母は好きな庭仕事をしながら、穏やかな生活を送っていたので私の目には幸せそうに写った。

夫はいつも母親のことを気遣い優しかったし、最晩年は介護も夫が引き受け、嫌な顔もせず献身的に介護していたから。

そして、姉も頻繁に顔を見せ、若い頃は母親を困らせたという弟も近くに住んでいたし、時々顔も見せていた。自営業で成功してからは何かとプレゼントもしてくれていたし。

ただ一つ、夫が倒れてしまった事だけが悲しいことだったのだろう。最後の最期で入院生活になり、夫のことを心配し続けたのだから。

 

今日は義母の3回目の命日だ。

義母の葬式の時、マヒと高次脳機能障害が残った夫は手を合わせることもできなかった。焼香の方法も分からず、お香を口にしようとさえした。だけど、今はいろんなことができるようになり、理解もできるようになった。

私は月曜日に一人でお墓参りに行って来た。

そして、今日は夫と二人で仏壇に手を合わせ「お義母さん、あの頃よりずっと良くなったから安心してね」と、心の中で話しかけた。