えむこの雑記帳 ~ときどきひとり言~

これは、脳出血後たくさんの後遺症が残ってしまった夫とえむこの何気ない日常生活を書き留めたものです。

介護への思い

月曜日の新聞の楽しみは歌壇・俳壇を読むこと。

短歌も俳句も4名の選者がそれぞれ10首、あるいは10句ずつ選出した作品が掲載されている。

この間の月曜日の歌壇は佐々木幸綱さん選の第1首に衝撃を受けた。

二度とない人生なれど四半世紀介護に明け暮れこれも又よし

狭山市にお住いの男性の方の歌だ。

そして、下記のように評されていた。

・・・進行性核上性麻痺の妻の介護に取材したこの作のたんたんとしたうたいぶりに注目

この男性がおいくつぐらいの方なのか、奥様はどのような状態なのか、同居のご家族あるいは手伝ってくれる方はいるのかいないのか、そして、どのような介護生活なのか、私には何も分からない。分からないけれど、頭の中はその方のことでいっぱいになり、歌は頭から離れなくなってしまった。

 

2度とない人生なれど四半世紀介護に明け暮れこれも又よし

2度とない人生なれど四半世紀介護に明け暮れこれも又よし

2度とない人生なれど四半世紀介護に明け暮れこれも又よし 

 

「これも又よし」という気持ちになるまでにはおそらくいろんなことがあったのだろうと想像する。真っ暗闇の中に放り出されたような不安、底のない悲しみ、どうしようもない悔しさ、そういった思いと闘いながら長い道のりを必死に歩んで来られたのではないだろうか・・・

でも、大事な人の介護には違いないのだろう。自分で介護したいと思っているのかもしれない。それとも、介護ができること、一緒にいられることが「これも又よし」という思いにつながっているのかも。すべてが想像なのだけれど。

 

私は夫の介護生活に入ってもうすぐ6年。まだ6年だ。両親や義母の看護や介護を含めても10年にも満たない。四半世紀にはほど遠い。

介護といっても千差万別。しかも生身の人間のことだから同じであるはずがない。だけど、介護を丸ごと引き受け、それを 「これも又よし」と思える人に介護される人は幸せな人だと思えてならなかった。

 

私にとって夫の介護は贖罪でもあり、私に与えられた最後の使命、というか役割、あるいは仕事だと思っている。だって、私がもっと気遣っていれば今のような状態にならなかったかもしれないし、介護をするのは私しかいないのだから。

私の場合は「これも又よし」という心境になることがないわけではないけれど、未だに心は揺れ動き、まだまだ足掻いている最中だ。それこそ二度とない人生だから。とはいえ、投げ出したいという気持ちにはなれないけれど。

 

今週はテレビのいい場面の時に夫にトイレで呼ばれても、食事の準備や片づけの最中に中断させられても、夜中に何回も起こされても「これも又よし」と心に中で呟いている。友人からのハガキに「青春18切符で出かけまーす」とあっても、私は夫のデイケアの日に花を眺めに出かけたり、鳥を見に出かけたりして楽しんでいるのだから「これも又よし」と思う。もう私の生活から介護は切り離せないのだから。

私も二度とない人生だけど、これから先の人生が介護に明け暮れようと「これも又よし」と思いながら暮らしていけたらと思う。