夫が倒れたのは2010年の今日、9月29日のことだった。
仕事で出かけた友人宅で、異変に気付いた友人が電話を入れてくれたのが午後6時ごろ。それからのことは今でも鮮明に覚えている。
あれから5年の月日が流れたのだと思うと、感慨も一入だ。
急性期病院に入院中は「人間の尊厳」ということをどれだけ考えさせられたかわからない。意識がないこと、意識が戻っても言葉が話せないことで、その尊厳というものがいかにおろそかにされるのかと。今でも思い出すたびに怒りが沸々と湧いてくるほどだ。
回復期リハビリ病院に転院後は病棟の入り口に張りだしてあった病院の理念とも思える文章に私はかなり救われた。ここは言葉が話せなくても、自分で動けなくても、人間としての尊厳を守る看護や介護をしてくれようとしているのだと。
半年の入院期間を終え、退院後の4年半は一人介護。今思い返すと、それこそ必死の4年半だったように思う。悔しい思いや、悲しい思いをしたこともあるけれど、退院後はそれよりうれしかったことやありがたいと思うことの方が多かったように思う。
右半身マヒで車いす生活になり、失語症はじめ失認、失行、右半側注意障害等、多くの高次脳機能障害を抱えてしまったから、今までは感じなかったような些細なことにも反応してしまうのかもしれないけれど。
昨日、ご近所さんがお祭りの花とお菓子券を届けてくれた。その時「退院したころと比べると本当に良い表情になりましたね」と言ってくれた。実際にその通りだと思うけれど、よそ様から言われるとその一言さえもうれしくなってくるのだ。
今日は秋晴れのいいお天気だった。
訪問リハビリの時、家の前の公園から近くの幼稚園の園児や先生方の声が聞こえてきた。近々運動会があるのか、リレーの練習をしているようだった。先生がバトンの渡し方を教え、その後、白線で書いた円の周りを実際に走っている様子が縁側から見えた。そして、走っている園児にみんなで「ガンバレ!! ガンバレ!!」と声援を送っていた。
そんな声を聞いて、理学療法士のYさんが夫に「今日は階段を下りて、外に行ってみませんか?」と言った。
リハビリのメニューは担当の理学療法士によって多少の違いはあるけれど、バイタルサイン(体温・脈拍・血圧・経皮的血中酸素濃度)を測定し、ストレッチ、関節可動域訓練、腹筋・背筋等の運動を行い、その後歩行訓練を行っている。人によって、手の運動を加えたり、装具や靴を履く訓練も行ったりしている。
今日の担当Yさんの歩行訓練は、先ずはベッドから起き上がり端坐位になる。健側の靴を自分で履き、装具と患側の靴はYさんが履かせてくれる。そして四点杖を使い、介助で立ち上がる。ベッドの位置から玄関まで歩行。上り框を下り、床に下りる。(階段2段を下りる)そこから玄関ドアまで歩き外に出る。そこで大きく回り、玄関に戻り、あとはベッドまで逆方向に戻るというもの。もちろん、歩行は介助しないと1歩も歩けないけれど。
それを、今日は階段を下りて外まで歩こうと言うのだ。
そこまで行くのには玄関に2段、玄関を出たところに2段、道路に出るまでにまた10段近くの階段がある。
以前、載せたことがあるけれど、道路に出るまでの階段はこんな風。
それでも、夫はその誘いに即首を縦に頷いた。今年の4月初めごろ、やはりYさんの時に公園までさくらを見に行ったことがある。もう半年も前のことだ。
私がベッドから公園まで行くのにたぶん1分とかからない。だけど、夫はその時20分かかったと記憶している。
今日はバイタルサインの測定とストレッチだけを行い、Yさんはすぐに歩行訓練に入った。
時間は計らなかったけれど、前回よりは早かったような気がする。Yさんは相変わらず汗だくだったけれど、足の運びは確実によくなったように感じた。
昨日と今日の違いは分からないけれど、半年前との違いはよくわかるものだ。
もちろん、5年前とは雲泥の差だと思う。介助でとはいえ、こんな階段の上り下りができるようになったのだから。
これからますます年を取って行く。そうすると老化現象は避けられない。それでも今を維持するだけでなく、少しでも前に進みたいと思う 。
リハビリに精を出し、刺激を求め外に出て、明るく前向きに。そしてこれからを共に今を生きて行こう。
倒れて5年経った今日、そんなことを考えていた。