看護学校の同級生は42名。
名古屋の学校だったので、中部圏からの出身者が多かったけれど、それでも南は鹿児島、愛媛から、北は新潟からと全国各地から集まっていた。
殆どが寮生だったけれど、全寮制ではなかったので、私は2年次から自宅通学に切り替えた。で、私たち学年の通学生は7名になった。
学校は1年次は基礎科目のみで机上の学習。2年次から辛い臨地実習が始まり、3年次はかなりの時間が実習だった。
そして3年間、共に学び、辛い実習にもめげることなく卒業した。
卒業後は保健師学校に進学する者、大学の養護教員養成課程に編入する者、私のように地元に戻り看護師として就職する者、実習病院に残る者とそれぞれの道に進んだ。
もう誰一人いないけれど、実習病院に残ったのはたった4名だった。いつもメール交換をしているMちゃんと、同じ通学生だったNちゃん。そして、K子さんとT子さん。
女性の集団に限らないとは思うけれど、人が集まるとどうしても仲好し良しグループというものができる。
私はなかなか人に馴染めない性格のようで、1年間、寮生活したにもかかわらず、42名の同級生のうち話したことすらないという人がかなりいた。
実習先へは何人かのグループで行くのだけれど、それは名簿順で決められる。だから、名簿の前後5人ぐらいしか同じグループになることもなかったので尚更なのかもしれないけれど。
で、実習病院に残ったT子さんとも3年間に1~2度しか言葉を交わした記憶がない。
T子さんは富山県出身。学生時代はワンダーフォーゲル部に所属し、仲間とともに山歩きを楽しんでいた。卒業してからは山歩きはもちろん、Mちゃんたちと海外旅行も楽しんでいた。
話してないから確かではないけれど、明るくて、穏やかで、しっかり者という感じだった。仲間内での信頼も厚く、残った4人の中では所謂一番の出世頭だった。
私は話したことがないとはいえ、何だか自慢の同級生だった。
もう10年以上前のこと、同級生からT子さんの訃報が届いた。
自らが選んだことだったそうだ。仕事ではかなり辛い立場に立たされていたそうだけれど、はっきりとした原因は誰にも分からなかった。
T子さんは独身だったのでマンションで一人暮らしをしていた。
亡くなってから、MちゃんはT子さんの弟さんに頼まれ、一緒にマンションの片づけを手伝ったそうだ。
その時、弟さんが「姉には仕事を辞めるという選択肢がなかったのだろうか・・・」と呟いたという。弟さんは仕事が原因だったと思ったのだろう。
私も1年間、仕事でかなり辛い立場に立ったことがある。詳しいことは書けないけれど・・・
それまでの私にも仕事を辞めるという選択肢はなかった。だけど、T子さんのことがあってから、弟さんの言葉を思い出すようになった。
私の場合、1年間で移動させてもらえたので救われたけれど、もしも移動が叶わなければ、辞める覚悟をしていたのだ。
Mちゃんは毎年、T子さんのお墓参りに富山まで行くようになった。
今日もT子さんと仲良しだった静岡県に住むM代さんと夜行バスで富山に向かった。
明日は多分快晴。M代さんとおしゃべりをしながら後立山連峰の山々や日本海を眺め、5月の新緑を身体いっぱいに浴び、二人で笑いながらT子さんを偲び、お墓参りをすることだろう。
Mちゃんは最後までT子さんの一番間近にいた同級生だ。
「さまざまな想いをしてきたけれど、やっと辿りつけた境界(仏教)だと頷いている」というMちゃん。そして「T子さんが護っていてくれるのかなあ・・・」と。
卒業後、私は話すことがなかった同級生の中でT子さんは唯一仲良くなれそうな人だと思っていた。実際には仲良くなることはなかったけれど。
Mちゃんと、M代さんは明日の夜には帰って来る予定だ。
私はお墓には行かないけれど、こうしてT子さんのことを思い出しながら、私も一緒に偲んでいるのだ。