私は特別なファンだったわけではないけれど、お笑い漫画道場だけは富永一朗さん、鈴木義司さん、車だん吉さんたちとの掛け合いや出演者が即興で描く漫画が面白く、いつも楽しみに見ていた。当時は美人でかわいらしいけれどなかなか愛嬌がある人という印象だった。
いつの間にか私はお笑い漫画道場を観なくなり、その後は女優としてテレビや映画に出演していたようだけれど、私はその姿を見ることはなくなった。それが最近、バラエティー番組で時々見かけるようになり「相変わらずスタイルもよくて、おしゃれでいつまでもきれいだなあ」と思っていた。そうしたらいきなりの訃報だった。そして54歳だったと聞き、スタイルもよくて、おしゃれできれいだったとはいえ、改めて「54歳っていうのはあんなに若いんだ・・・」と思った。
私の母が亡くなったのも54歳の時。54歳と1か月と11日だった。母は胃癌だった。
今では本人に病名を告知し、本人が納得の上、治療を自己決定するようになったけれど、当時は癌という病名を本人に告知することはなかった。本人どころか女性に告知することもなく、告知するのは結婚していれば配偶者である夫か父親か息子にだけだった。
我家の場合、兄弟は遠方で暮らしていたとはいえ、父も兄も弟もいた。だけど、私が母が入院していた病院の看護師だったということで告知はすべて私にだった。それはまだ23、24歳の若い私にはとても辛いことだった。ただでさえ母が癌だという事実が悲しくて、悲しくて、自分自身がどうしていいのかわからない状態なのに、どういう言葉で父や兄弟に伝えたらいいのかと悩み、母には決して涙を見せぬよう嘘を吐き通さなければならないのだから。
母は胃の全摘手術を受け、一旦退院した。
当時は抗がん剤治療などはなく、再発したらその時は覚悟が要った。
退院するとき、先輩から「再入院したら帰れなくなるからできるだけ家で過ごしたほうがいい」と言われた。だけど未告知なのだ。母は我慢強い人だったけれど、調子が悪くなれば治ると信じ、受診するだろう。だから私は退院後も気が休まることはなかった。
1年後、母は再発し入院した。
徐々に体力は衰え、明らかに状態は悪くなった。それでも私は嘘を吐き通した。そういう時代だったから。
亡くなる1か月ぐらい前だっただろうか、母がぽつりと「私はもう家に帰れないような気がする」と言った。我慢強く、弱音も吐かず、文句も愚痴も言ったことがない母が初めて弱音を吐いた。自分の体の衰えがわからないはずがない。それでも私は嘘に嘘を塗り重ね、最後まで嘘を吐き通した。
今、本人に告知する時代になり、あの時あれでよかったのだろうかと考えてしまう。
母はしておきたいことがあったかもしれない。行っておきたいところも、伝えておきたいこともあっただろう。もしも告知されていたらどうだっただろうか。今更考えても仕方がないことなのに今でもそんな思いに悩まされることがある。
今日は母の命日だった。あれからもう41年が経つ。
夫がデイケアに出かけた後、お墓参りに出かけ、しばらくお墓に向かい母に話しかけてきた。今の私より12歳も若いままの母なのだけれど。
「もっともっと長生きしてほしかったなあ」と思いながら。